キロク→キオク、或いはモノガタリ


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2006/06 ケモノがわらった

不定期で書いております。もう今年も夏の匂い。

アテンドいただき旧友とミュウジアムへ。シャガール。 色彩に染め抜かれるここち。細部に宿るケモノが嬉しい。 だいじな忘れものを渡してくれるフェイスな友人と サムライフェイスの芸術家と 潮の香りに黄色い光を浴びて 時があしもとから抜け落ちたよな なんとも素敵なひとときでした。




2006/02 舞台芸術に触れてみた

とある複合ワークショップのオボエガキ。 演劇・ダンス・舞台美術の4日間、ともかくよく遊んでくたくた。

まずは演劇のワークショップ。 どうしても言葉にひきずられる。台本をしっかり読んでしまう。 それだけことばのちからは凄いということ。 そんなことばを日々口にして耳にして同時複数会話しながらノホノホ暮らしていること。
この日常を演じることにコチコチ固まっていたらば、 先生がホイとキビダンゴくださりホレと背中をうながしてくださった。 で、台本読んで、ポポンと終了。
なんだろう、このざわめきは。 耳底に舌の上に覚えるざわめき。 遠くを見て聞いていれば、背後にあるのはわかる。 目を閉じて耳をすませば、すっと消えてしまう。 会話分析してみたってゲンショウガクテキにあれこれ言ってみてたって 知ることがなかった日常性、その身体的リカイ? 隠し持っていた背中の毛並みをさらりと撫ぜられたよな残された感覚に、 夢をみた/夢から覚めたよな寝起きのアタマ。

これまたサンパな舞台美術の先生には、気になっていたことをおたずね。
人の気配が感じられるように空調をとめる、とおっしゃる。 そういえばあのブタイ、観客のわたくしは、となりのひとがじぶんのおとが気になった。 目を閉じてもいい、そう思えた。 聞こえてくることだけ聞こう、見えてきたものだけ見よう。 モンダイとされるのは、おそらく、ワタクシの感覚だ。 オノレの感覚に受けとめられたものを、オノレで気づき歩めということなのか。 いわゆる身体に与えられたもの/与えられているものに耳を澄まそうぜ、 この場から動かずこの手触りをケアしようぜな一派を想起。 難題をつきつけられた気にもなる。どこかひっかかりをおぼえる。 全体性への危惧? たくさんのよい批評がなされていれば、おもしろい。

そしてダンスのワークショップは、全身のちからを抜くことから始まった。 アメーバから哺乳類まで進化してみたり、10分間かけて立ちあがってみたり、歩いてみたり。立ちあがれない、歩けない。 普段どれだけ、自分のからだを意識しないで動かしているか。 大切なのは、目を閉じないこと。日常の意識をたもちながら、身体に耳を傾けること。
足の裏のやわらかさが全身のやわらかさだという言葉に、先生の足に目をやる。 足裏がしなやかだ。身体とともになめらかに伸び縮み、ひっかからない。 真似ぶように、起こしたちからに逆らわず、ちからが流れるままに、体をゆだねてみる。 自分の身体のかたさがわかる。ひっかかる場所、はじめて気付く場所。 それでも、反復のうち、飛べそうな気になってきていたら、 ある瞬間、お近くで飛んでいらした先生とつながった。 そこにあるのは、空気と、からっぽの身体。ニカニカ笑顔。
身体をねじり、ねじれに身体をゆだね、ねじれるままの身体になる。 どんな山のどの場所でどう育ったかで、木にクセがある。 自分のねじれがどんなだか知る。ねじれのなかで知る。




2006/02 こんにちは、こんにちは

このサイト、ホッタラカシで幾年月でございまず。

トウジ暮らしはじめたこの環境にも幾年月、いつのまにやら長逗留。 ワタクシの皮膚やら骨やらの半分ほども、ここでの呼吸で入れ替わりました。

もとよりこの土地の匂いが好ましく愛おしく、ふとした呼吸に幸福感をおぼえることたびたびなのですが。この懐かしさこの安堵感この寂しさはいったいナニモノなんでしょか。

homeを持つからhomelessになるのだと、クレオオルな御本にありました。

いずれ失い/失われるものをいま享受している、アルイハ、 持っていると思っているものは もとより持たないものであることを知る、 そんな感覚なんですかな。